チャタはもの凄い勢いで、大きく飛び上がった。ゴン、と天井に頭をぶつけ、ぼとり、と落ちてくる。
「びっ…くりした…」
ぽかーんと口を開けて見つめられたので、シディは困ってしまう。
「ええと…僕、何かしました…?」
「ちょ…ちょっとシディ、いたなら声かけてよ!まじビックリしたんだけど?!え?いつから?!」
「ずっとここにいたんですが…」
「うっそ…気づかなかった」
シディは涙目である。
シディがキッチンで洗い物をしていると、ノンがニヤニヤしながら近づいてきた。ちょうどシオン亭の見張りはシディとノンのふたりで、他の面々は外へ出ている。ヒヤリとした空気に包まれる。こういうときは大体ロクなことがない、と経験でシディはわかっていた。
「取引しないか?」
「とりひき…」
シディはその怪しげな響きに思わず後ずさりする。
「君の、その”チェッカーコード”についての追加情報、欲しくない?」
「…な…なんでこの、コードのこと知って…」
シディはバンダナをぎゅっと掴む。え…今更?と、逆にノンはうろたえる。
「いやいや…君さ…隠す気ないだろ…寝てるときとかバンダナ外してるじゃん…」
「クッ…バレていたとは…」
「昨日思いきりすっぴん状態ではしゃいでましたけど」
「バレてしまっては仕方ない…ここで始末を…」
「その謎のキャラやめい」
「え〜いいじゃないですかぁ」
「読んでるのか…」
ノンはやれやれ、と頭を抱えた。最近チャタがはまっているらしい、ダークヒーローもののマンガの影響だろう。
「結構面白いんですよ!」
「そう、はぐらかすなよ…真剣に言ってるんだけど」
「けっこう主人公がかわいそうな設定で」
「聞いてる?」
「アーアーアー聞こえなーいデース」
「おい」
「…」
睨まれたので、シディは言葉に詰まった。本当のことを言うと、これ以上ややこしい事情や複雑な情報を、知りたくないのだ。
「存在に気づかれないとか、なぜか無視されるとかさ。そういう経験一回に限らず何回もある?」
「う…」
シディはギクリとした。
「身に覚えがありすぎます、ね…」
「前からそうだったか?」
「いえ…前はこんなことなかったです…農園でも、僕いちばんのお騒がせでしたし」
「なんでだと思う?」
ノンは楽しそうに、そわそわしている。怖いが、確かに気になる情報だ…。
「何と引き換えに、教えてくれるんですか…」
シディはごくりと唾を飲み込んだ。
「そのコードを埋め込んだ張本人について。そして、誰に追われているのかについて教えて欲しい。本当はもう少し覚えてる事があるだろ?」
「…」
ユズハにシオン亭のルールを教わって以来、余計なことは言わないようにして来た。が、これは”取引”だ。こういう時どうするか、よく考えるべきなんだろう。しかしシディは細かいことを気にして居られないタチだった。しばらく黙った後、ぽつぽつと話し始める。目を隠すゴーグルのようなものを被った灰色のカービィのこと(そいつがシディに”コード”を埋め込んだ張本人だ)。そしてそれを追って来た2人組…フードを被ったカービィと、鋭いブーメランのようなものを持ったカービィのこと。
なるほどな、と言ってノンはしばらく考え込んだ後、口を開いた。
「”コード・エンベデッド”だ」
「こーどえんべでっど」
シディはぎこちなく繰り返す。
「そのチェッカーコードには何らかの重要な機密情報が埋め込まれている。それを喉から手が出るほどに欲しているひとがいて、一方でそれを、何が何でも守ろうとしているひとがいる」
ノンは淡々と説明を続ける。
「”コード・エンベデッド”は、コードを埋め込まれた個体に付加される後天的な体質だ」
「ど、どんな?」
「コードの存在を覆い隠す、言わば目くらましの様なもんだな」
「つまり…?」
「つまり、そのコードを埋め込まれた生体は…」
ノンが深刻な表情を浮かべ声をひそめるので、シディは恐る恐る顔を近づけた。
「影が薄くなるってこと」
「えええ…」
シディは拍子抜けした。
「影が薄く…もう少しカッコいい言い回し…なかったんですかね」
「事実なんだからしょうがないだろ」
「まあ…おかげで合点がいきました…」
なぜ追っ手から逃げ切れるのか。気づかれずに侵入できるのか。シディは今まで起こった不思議なできごとを順に思い返す。
「まーいいじゃん、そのおかげで何回も窮地から脱することが出来てるんだからさ。あとシオン亭の皆は薄々勘付いてるだろうけど、潜入捜査にはもってこい」
羨ましい、とノンはボソッと付け加えた。別に潜入捜査なんてしないですもん…と、シディは口を尖らせる。
「ここに身を置いている限り、利用されざるを得ないだろうね」
「うぅ…便利に使われるってわけですかぁ…」
「おかげで安全に暮らせてるんだから文句言わない」
はあい、とシディは力なく返事する。
「ちなみに意図的にコントロールすることは出来ない。”体質”だからな。いざっていう時には真価を発揮するかもしれないが保証はない。あと、短期的に発動する体質だから君の存在自体が誤魔化されたり、コードの模様が消えたりすることはない。フラフラ油断してたら普通に見つかって捕まる」
「肝に命じておきます…」
シディは大仰にぺこりとお辞儀した。
「あの、ノンさん」
シディは顔をあげた。
「一つ聞いて良いですか?」
立ち去りそうになったノンに、恐る恐る声をかける。
「ダメです」
「えぇぇぇなんでですか!!!」
ノンは首を振り、ヘラヘラと笑っている。
「条件提示するなら、ちゃんと取引の前にしなくちゃ〜」
「くっ…汚い!汚いですよーっ!!」
シディはぎゃあぎゃあ騒ぎ始めた。
「ノンさん…そうやっていつも探りを入れてますけど、何のためなんですか…」
「…」
ノンは相変わらずヘラヘラ笑っているが、何も言わない。
「…答えてくれなくて良いです」
ルールですもんね…。シディは諦めてソファにぽてっと座る。
「なんとなくですけど、悪いことには使ってない気がするので」
「…」
「信じますよ、僕は」
ノンはそりゃどうも、とだけ呟いて、くるっと振り返って二階寝室へと向かった。相変わらず何を考えてるかわからないなあ、とシディは呑気に思ったが…。その数秒後には、もう彼の思考は今晩の夕飯のことで一杯になっているのであった。
おわり